Servus Akiの疑問に思った各地の話題、食べ物や飲み物、世界各地の都市の疑問を徒然に書き綴ったエッセイです。

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ハプスブルク家の起源

2016-07-02

ハプスブルク家の起源

オーストリアといえばやはり、ハプスブルグ家を語らないわけには行かないでしょう。
元々ハプスブルク家はスイスのバーゼルのほぼ東側にある、ブルックの弱小伯爵家でした。この、ハプスブルクという名前も大鷹或いは鷲 (Habichit) の城 (Burg) という意味で、その歴史は10世紀後半頃から始まりました。ハプスブルグ家は、名門だが貧乏で弱小なオーストリアの一貴族にすぎません。マクシミリアンの父フリードリヒ三世は神聖ローマ帝国の国王だったのですが、これは神聖ローマの王を選ぶ選帝候たちが有能な専制君主を欲していなかったのです。なぜなんでしょう。ようは、選帝候たちに対してイエスマンであったら良かったんですね。
だが選帝候たちの間違いが生じたのです。フリードリヒ三世は他の選帝候達よりも長生きでした、そのため次のローマ帝国皇帝を選ぶ際に自分の息子マクシミリアンを選んだのです。このマクシミリアンは「中世最後の騎士」というあだ名をもつ、騎士振りがよい人物でした。
マクシミリアンはブルゴーニュ家のたった一人の跡取り娘[マリア]と結婚し、ハプスブルク家の繁栄を築き上げたのです。


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ウィーンのカフェ

2016-07-02

ウィーンのカフェ

ウィーンに行かれた方も、ウィーンに興味がある方もご存知なのがウィーンのコーヒーハウスではないでしょうか。【オーストリアの歴史】と謳っている割には、毎回程遠いテーマでの語り口で進んでいますが【??】が付いているように、学校で習う歴史からは、ちょっぴり外れて紹介しているコーナーです。
と、言う事でウィーンを語るには、カフェの文化も知らなければならないでしょう。これには、コーヒー以外に「クロワッサン」の事にも触れなければなりません。

《ウィーンのカフェ事始》
1683年9月11日(天和3年7月21日) オスマン軍に包囲されているウィーンは絶対絶命の危機を迎えていた。応援の到着を今か今かと待ちわびていた頑強なウィーンの街も勇猛なオスマン軍の前に明日をも知れぬ最後を迎えていた。外壁で守られていた(今のリンク)ウィーンの街を陥落させようとオスマン軍は夜中にトンネルを掘って攻め込もうとしていたのだが、朝の早いパン屋がパンを焼いている時、厨房で耳慣れない物音がしているので辺りを見回しても誰もいない、耳を澄ますと、どうも地下から物音がする、これは何者かがトンネルを掘っているのではないかと気づき、もしかしたら今、攻め込んできているオスマン軍かも知れないと気づき、さっそく軍に報告した。
オーストリア軍はこの敵の侵略作戦を阻止しようと懸命に抵抗したため、オスマン軍を蹴散らすことが出来ました。このパン屋の気転が無ければウィーンの街はどうなっていたか、わかりません。難を逃れたオーストリア軍ですが、その後ポーランド王ヤン3世ソビエスキ(54)の率いる10万のヨーロッパ混成軍が到着し、 9月12日、ヨーロッパ混成軍がウィーンの北方でオスマン軍を破ったのです。オスマン軍はベオグラードへと撤退していったのです。
見事オスマン軍を蹴散らしたきっかけを作ったパン屋は皇帝や国民から多いに称えられたそうです。そしてこのパン屋は皇帝にオスマン軍の国旗に描かれている三日月形のマークを模ったパンの製造を願い出た所これを許され、売り出したところ「オスマン軍を食らう」という、洒落が受けたのか大いに儲けたそうです。
その後、このパンはウィーンに定着し今でも「キッフェル・ブロート」(三日月パン)として残っています。この当時オスマン軍は何処の国からも恐れられていたので、このパンはヨーロッパ中に広まったようです。特にフランスでは人気があったようで、三日月のことをフランス語で「クロワッサン」というのはご存知の通りですね。「クロワッサン」も、マリー・アントワネットが輿入れした1770年頃は、普通の三日月パンでしたが、バターを使って折パイのように作っていく今のような「クロワッサン」が登場するのは
1906年になってからです。パリの菓子職人、オギュスト・コロンビエは自分の「ブルジョワ風菓子店」で現在のようなクロワッサンを作り始め、その後、いろいろな職人たちがこの新しい「クロワッサン」作りに挑んでいったのです。昔からあるように思われるこのパンは実はまだ百年も経っていないのですね。
「クロワッサン」はウィーン生まれのパンなのです、「クロワッサン」を召し上がる時はウィーンの街を思い浮かべながら召し上がってください。
オスマン軍が去った後に大量のコーヒー豆が残されていたのですが、まだコーヒーというものを知らないウィーンの役人は捨てるつもりだったのですが、オスマン軍の伝令またはスパイとして働いたコルシツキーという人物が何も知らないウイーンの役人から、伝令の礼にと譲り受け、ウイーン初のコーヒーハウスを開いたのがウィーンのカフェ文化の始まりとされています。
ウィーンが世界初のコーヒーハウスということではないのですが、音楽家、政治家、文化人などに愛されたウィーンのカフェはいまなお、皆に愛され続けられているのです。ウィーンにお寄りの際には是非ともお立ち寄り下さい。

各国の初のカフェハウスの歴史を並べてみました。
1554年コンスタンチノープル(トルコ)
1645年ベネチア(イタリア)
1650年オックスフォード(イギリス)
1671年マルセイユ(フランス)
1679年ハンブルグ(ドイツ)
1683年ウィーン(オーストリア)

ウィーンのコーヒーにはさまざまなものがあります。(一部のみ)

『メランジュ Melange』
ウィーンで最もよく飲まれているコーヒーです。泡立てた牛乳が入っています。昔は牛乳でなく山羊の乳だったそうです。

『ブラウナー Brauner』
生クリームまたはミルク入りのコーヒー。大(グローサーGrosser)と小(クライナーKleiner)がある。

『カプツィーナ Kapuziner 』
ホイップクリームを浮かせカカオの粉をふったもの。

『モカ Mocca』
濃いブラックコーヒー。シュヴァルツアーともいわれる。小さなデミタスカップで出される。

『アインシュペナー Einspaener』
たっぷりのホイップクリームが入っています。背の高いグラスで供されるのが正式。日本で言われている「ウィンナーコーヒー」はこれから来たようです。

『アイスカフェ Eiskaffee』
日本のアイスコーヒーと違い、グラスにバニラアイスを入れ、冷たいモカを注いでホイップクリームを添えたもの。

( 追 記 )
昔のウィーンの街の近くは牛よりも山羊が多くコーヒーにはもっぱら山羊乳が使われていたようです。
1867年パスツールがバクテリアは摂氏55℃で殺菌されると発表。これで牛乳も遠くへ運搬できるようになり1913年、電気冷蔵庫が発明され、食品保存の歴史が変わりました。

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ユリウス・マインルと田中路子

2016-07-02

ユリウス・マインルと田中路子

田中路子      1909年~1988年5月18日(享年79歳)
ユリウス・マインル1873年~1943年5月16日(享年70歳)
結婚期間     1930年~1941年 11年間

ウィーンの中心街を散策すると必ず目にとまるのが高級スーパーマーケット「ユリウス・マインル」です。
この店はオーストリアのコーヒー王と呼ばれた大富豪ユリウス・マインルが経営するお店です。ウィーンといえばカフェー文化が今でも続いているお国柄ですから、コーヒー王と呼ばれるユリウス・マインルはかなりのお金持ちです。ここの奥様が日本人、田中路子氏です。青山光子氏といい日本女性は海外でがんばっているのですね。
この田中路子というのはどんな女性だったかというと、1909年高名な日本画家田中頼璋の娘として神田に生まれ根岸で育ち、小学校時代の同級生には中村勘三郎がいたそうです。
田中路子は東京音楽学校で声楽を学んでいるときに、チェロ奏者斎籐秀雄と道ならぬ恋に落ち、そのほとぼりを冷ますために、両親の意向でウィーンに留学しました。そこでオーストリアのコーヒー王と呼ばれた大富豪ユリウス・マインルに出会います。
結婚時に路子21歳マインル57歳と年齢の離れた二人でしたがマインルの薫陶と当時の知識人・文化人との交流で次第に中欧文化の粋とも言うべき教養を身につけていったのです。
その時のオーストリアは1929年に始まった世界大恐慌の真っ只中で、1933年にはヒットラーが首相に就任。1939年には第二次世界大戦がはじまりました。そんな激動の中での結婚生活でした。
1931年10月20日にドイツ映画「会議は踊る」がヨーロッパで封切りされ、ウィーンが注目された年でもあります。
今、日本の財団法人日本音楽教育文化振興会が主催する事業の一つに田中路子賞というのがあります、これは声楽部門の賞で有能なソリストを発掘し優秀な人材育成並びに声楽技術の啓発を目的とするものだそうです。
高級スーパーマーケット「ユリウス・マインル」は数年前に、デリカテッセン、レストラン、出張パーティー、お土産などそろえて新規オープンしました。場所はグラーベン通りです、日本・オーストリア食文化協会のメンバーであるSCHOKOLADE KOENIG(チョコレートの王様)店のすぐそばです。
コーヒー王の店ということでここのコーヒーの味には定評があります、このコーヒーを日本でお求めになるのなら神奈川県藤沢市湘南台のフレイ延齢堂で購入できます。 http://cake-cake.net/frey こちらからどうぞ。

【追加情報】
今、オーストリアのディスカウントストアー(DS)、ホーファー「Hofer」は少品種大量仕入れで低価格を打ち出したDSとしてウィーンで評判です。このお店は「ユリウス・マインル」の元従業員ヘルムート・ホーファー氏が立ち上げました。サービスは「ユリウス・マインル」と同じで、値段は低価格です。
ウィーン土産もありきたりの物よりもウィーン子が日常利用しているものをお土産にしてみるのも面白いのでは。


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